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木村明と東芝

前立腺超音波装置の試作機(東芝が作った2台目)に出あった


東大の関連病院をローテーションしていた私は公務員が長かったのですが、東芝病院に勤務していた合計5年間は、東芝社員でした。

東芝医療機器事業部(本社の社員)や東芝メディカル(販売するための子会社)やさらに東芝メディカルが売った製品をメンテナンスする子会社の社員の方々とも一緒に仕事をしました。

この冬休み、特定検診についての記事を書きたいと思っています。登場する保険者は東芝、被保険者は東芝社員とその妻がモデルとなります。で、ここに今の私があるのは東芝のおかげである事を、改めて強調しておきたいと思います。

というのは、特定検診開始に伴い起こるであろう混乱を書きたいので、モデルの会社に悪意があるかのように思われたくないので。


1987年7月24日の読売新聞の夕刊に「一目りょう然 腹のうち」として紹介された腎の3次元表示の写真も東芝医療機器事業部の方が作られたソフトのおかげです。

以下、11月17日のブログから引用。
棒屋と言うあだ名は、昔、教授にお前みたいなのを棒屋というんだと言われたことが起源です。私が医者になる前に、口から食道までまっすぐな棒を突っ込んで心臓の超音波写真を撮ろうとした医者がいました。

剣を呑み込める曲芸師でもなければ、無理で、お蔵入りしかけたその機械を肛門に突っ込んで前立腺の写真を取ったのが、順天の先生でした。でも、アロカと組んで実用機を作ったのは東北大の先生。順天は東芝と組んで巻き返しを図ります。

東芝の1号機は順天へ、そして2号機がちょうど私が医者になって2年目に勤務していた東芝病院に入ったのです。

棒屋誕生秘話でした。

以下、10月19日のブログから引用。
私は1年目東大で過ごし、2年目に勤めたのが大井町の東芝病院。その時の部長の手法が今も染み付いています。ここで前立腺超音波装置の試作機(東芝が作った2台目)に出あったのが、私のライフワーク(前立腺癌の診断)に繋がっています。

東芝病院で染み付いたのは、土光さんが偉い人だということも。1979年当時、土光さんが経団連会長だったのか、NTT民営化などの行政改革を行う際の中曽根総理の諮問機関の長を務めた前だったか後だったか、忘れましたが(もちろん、土光敏夫でぐぐったらすぐ分かる事ですが)、土光さんが東芝病院に来る日は院長・総婦長が玄関で出迎えていました。

「今日、土光さんが来るのよ」と検査技師がうれしそうに言うのを聞いているうちに、何故か私も土光ファンに。

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